アマビヱ史料に関する若干の疑問など

何にも書くことがなさすぎてすぐ一ヶ月開いちゃったりしますね。悲しいことだ

 

別にアマビヱに興味があった訳ではないんですけど、TLに流れてきたのを見てなるほど?と思ったので若干の思考を垂れ流し。

 

そもそも気にかかったのは「江戸時代の妖怪」みたいなツイートを見かけて、「弘化三年(1846)」にしか言及のない存在に対して「江戸時代」はいくらなんでも広すぎるだろ、と素朴に感じた、というところである。イチャモン。

 

さて、史料画像はwikiのアマビエの項に載ってるのでいいとして、見てみると

 

肥後国海中え毎夜光物出ル所之役人行見るニ、づ(図)の如く者現ス、「私ハ海中ニ住アマビヱと申者也、当年より六ヶ年之間諸国豊作也、併病流行早々私シ写シ人々ニ見セ候得」と申て海中へ入けり、右写シ役人より江戸え申来ル写也
 弘化三年四月中旬

 

ということらしい(長野論文<直リンだとエラーが出るのでwikiから飛んでほしい>p.24も参照した)。自分で全部読めるかなと思ったけどかなに弱すぎて全然ダメだった。け(遣)を申し遣ると誤読したり……。字がまともだから普通に凹んだ。

 

さて、アマビエの性格とか尼彦との関係みたいなのは長野氏の論文を真面目に読むとわかりそうだが(めちゃめちゃ斜め読みしたので私はなんにもわかってない)、どっちかというと気になったのは「どういう史料?」というところ。答えから言えばこの史料は京大図書館蔵の瓦版らしい。

「右写シ役人(=肥後でwitnessとなった役人)より江戸え申来ル写也」なので、単純に考えればこの瓦版が頒布されたのは江戸市中かなあという気がするところ。だとすると、肥後の役人(普通に熊本藩の人間ということなんだろうか)から江戸に来た写しの図像が、どうやって市中瓦版に掲載されるに至ったのだろう。

 

瓦版というのは本来は発行自体がそもそも結構グレーな印刷物であって、絵草子問屋とかを介した検閲体制を通るようなもんではない。度々触れは出てて、専ら「世間之噂事又者火事之節類焼場所付抔」を記したものとして規制の対象とされている。

ので、彫ってる/刷ってる人間が果たしてどんな人間なのかがよくわからない(この時代の印刷行為には当然ながら彫と摺の工程が存在する)。江戸には板木屋の組合組織があるんだけど、組合外にも好き勝手に印刷行為をしてる人間は結構いたらしく、すると瓦版の画工というのは素人同然の人間がやってることも十分ありえたはずだ、と思う。

今話題にしている人は基本的にこのアマビヱの挿絵があまりにチープであることに面白さを見出してると思うんだけど、果たしてこのファニーな挿絵に至ったのがどの段階なのかがよくわからんのである。まあそもそも本当にこんなんが出現したわけはない(はず)なので、果たしてどっからが嘘松なのかもよくわからないんだけど。

適当な想定としては「なんらかあって『肥後でアマビヱなる海の怪が出た』みたいなスクープが江戸に届き、限られた情報から絵師が再現をしようとしたものの、情報の不確かさと素人板行とが相まってなんだかよくわからん絵が生まれてしまった」とかそんなところなのかな~、などと思うなど。すなわち、「肥後の役人による写」なんてものは流石に無かったんじゃないかと感じた、ということでした。

 

めちゃくちゃフワフワした適当なことを言ってもインターネットだからなんとでも言えるな、と今思っています。